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※TVアニメ化決定を知る前に書いた記事です。


「○○スタッフが贈る」という謳い文句で売る作品はあまり良い印象を持てないのですが、
1巻発売のちょっと前に監督のお話を聞いていたら、さとじゅん作品ファンなら見ておくべきだろうと思い直しまして。
ということで、自分の考察ではなく、監督がおっしゃっていた話のまとめです。
もちろんあくまで私の言葉でまとめているのでニュアンスの違いはあると思うし、誤解を生むかもしれませんが…。


●ARIAが何故作品として成立したのか?何故人気が出たのか?
企画当初は、大きな事件が起こらない、起承転結の「転」が無いような作品を受け入れる土壌が今ほどできていなかった。
その中で監督が『ARIA』のどこに勝算を感じたかと言うと、原作にしっかりした柱が立っているからだと言う。

1. 「主人公が一人前のウンディーネを目指している」というモチベーション・落とし所がはっきり見えている。
強いモチベーションで物語を引っ張って行くわけではないが、必ずそこ行き着くという安心感がある。

2. 「誰が誰を好き」という構造が明確で、しかもそれが蜘蛛の巣のようにあらゆる方向に張り巡らされているため、どこを取っても良い話が作れる。
「この人がここにいることの幸せ」「この人とここに来た事の幸せ」を繰り返し確認できる。

3. アクアの良い意味でリアリティーをそぎ落としたファンタジーな世界観が、現実で見たら「ありえない、きれいすぎる」と感じるところを、街含めてある種の「理想郷」を作っている。
だからARIAは、社会の汚い部分をもっと見たい中学生くらいまでは「こんなの嘘っぱちだ!」と感じてしまうかもしれない。
すでに社会にもまれてきた大人がハマりやすい。
同時に、「きれいで純粋な世界に浸れる自分」がまだいる事の確認ができる。


●「ARIA」と「たまゆら」の違い、「うみものがたり」での反省
原作とアニメがこれ以上無いくらいにきれいに同時に完結し、
天野こずえ先生が新しい作品を描き始めたということで、
こちらも新しいものにチャレンジしようということで作られた「たまゆら」。
たまゆらでは、ARIAが持っていたそのファンタジーな世界を逆にリアルに戻していった。
実際にある竹原という町を舞台に、高校生の女の子たちのあり得る夢の形、あいまいさを含めて描いた。

「ARIAからファンタジーを引いた分、何を足したのですか?」
という質問に対して、
「懐かしさ」だと答えていました。
そこに行った事がなくても感じられる竹原が持っている懐かしさ、
将来に対してふわふわゆらゆらしていたあの頃、
お父さんにおぶってもらった時に見える景色…
「懐かしさ」には色々な意味が含まれているのだと思います。

それと、お話を聞いていると「うみものがたり」での反省も生かして作られているようです。
時代と共に観客の器の形も変わって行くので、常に演出も変わっていかなければならない。
昔はテンポが良いと思った物も、今見るとだるく感じる事もある。
そういったお客さんの感覚の変化というのは、
実際にやってみて反応を聞いてからでしか分からない事。
特に分かるのが、第1話放送後に出て来る「面白くない」という評価の内容。
「うみものがたり」で監督が感じたのは、「ひねったものが受け止めてもらえない」ということだと言う。
例えば、派手なアクションシーンにピアノのメロディーを乗せたりする事がある種の定番のようにかっこいいものであると思っていたのに、うみものがたりで近い事をやったら単純に「合っていない」という印象になってしまった。
もちろんそういった演出が合う合わないは作品によるかもしれないし、肯定する人もいたが、ほとんどの人には「間違って」見えた。
またハイターゲットの作品の場合は、主人公のモチベーションを最初はぼやかすことで、逆に創造力をかき立てて牽引力になるというのが監督の体験としてはあったが、それが今回は効果を持たず「何がはじまったか分からずのめり込めない」ということになってしまった。
「ARIA」でもついてくれてきたファンだけではなく、離れていった人もたくさんいたはずだけれど、やっている最中はそれが見えない。
新しいものを作った時に一気にそのブラックボックスが開いてびっくりする。
そういうこともあって「たまゆら」では一番最初に主人公が写真が好きという事をはっきり示しているそうです。
方言に関しても、大阪弁や東北弁など許容できるものもあるが聞き慣れないものになるといきなり視聴者のハードルが上がるという経験から「たまゆら」では広島弁を喋るのが松来さんだけに。

…方言は、初見では逆に「なぜ一人だけ方言?」と思わなくもなかったです。
ちなみに「かみちゅ!」は尾道尾道と言われてますが、実は作中では具体的な地名はぼやかされています。
場所を特定しないことで方言を使わなくて済むように、という配慮らしいです。
もうちょっと最近だと「マイマイ新子と千年の魔法」ではまったく方言が気になりませんでした。
もう一人の主人公である貴伊子は東京からの転校生で標準語だったので、
むしろ新子と貴伊子が違う言葉遣いで会話をして仲良くなっていく様にほっこりさせられました。
あれは方言以外ありえないと思えます。
(でもやっぱりそのせいでハードルが上がったのは事実かもしれません)
たまゆらは、そこまで方言に強いこだわり(あえて排除する、とことんリアルに入れる、等)を見せる必要の無い作品だと思うので、広島弁の雰囲気も入れつつほとんどみんな標準語、というのが丁度良かったって事でしょうか。
作品に合っていれば何でも良いと個人的には思います。



そんなわけで具体的な感想は次の記事に続く。


追記:
私は「うみものがたり」も好きだったので「そういう見方があるのかあ~」と思って聞いてました。
記事を読み返したらちょっと「うみものがたり」を否定しているみたいになってしまったので一応書いておきます。
(あ、もちろん監督も否定的な言い回しはしてませんでした)



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